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《随想》 吉成庸子物語  作/吉成庸子【2025年1月号2面】

2025-01-09
カテゴリ:コラム,連載
好評
遠い思い出  
私が今この原稿を書いている日は新年を迎える十日前の深夜。ふと子供の頃からの忘れられない場面が次々に胸いっぱいに浮かんで来た。その瞬間、これを書き残しておこうと思った。

私の家は市原市の山奥。ずっと昔から東京にも家があり父や母も東京で暮らすことが多かったようだが、本当の家は市原ということでお盆やお正月は必ず市原の家で過ごした。

長男だった父は七才で父親に先立たれ当主となった。農業や小さな銀行と証券会社(現在の千葉銀証券)もやっていた。後を継いだと言っても子供に仕事が出来るわけもなく番頭や何人もの方々がやって下さったそうだ。父は銚子商業卒業後、明大に進んだ。銚子商業の後輩に吉成がおり、そんな関係から儀ちゃんと我が家は何となくお付き合いがあった。

当時あちこちの銀行が統一され千葉銀行となった。父は木材会社やガス会社等、色々忙しくしていた。私は東京で生まれた後も東京にいたのだが戦争が激しくなったので祖母や母と一緒に市原の家へ越した。だから私の幼い頃の思い出は市原から始まっている。

日本が戦争に敗れ数年経っていたが日本はまだ貧しく、農業を手伝って下さる方、お手伝いさんもたくさんいた。看護婦さんや一日中仕立物ばかりやってる人もいた。祖母がたくさん買いためていた反物があり、私は着物をいつも着せられそれがほんとに嫌だった。私に弟と妹が出来、私はますますおばあちゃん子になった。

父は「来る人拒まず」で我家には泊まり込みの人が増え、五十人もの人が一諸に食事するので賑やかだった。父は食べるものは平等と言い皆同じものを食べていた。山奥の村だから魚はあまり食べられず、時折サンマ等を売りに来た時は大喜びだった。また、母が「食べられる野菜とか葉っぱがあったら取ってらっしゃい」と言い、集まった野菜を大鍋で揚げ熱いうちに食べる天ぷらに皆は大喜びだった。肉と言えば鶏を潰して食べるのも楽しみの一つだった。

私が五才になった時、父が「世の中はまだ食べる物がなくて白いご飯を食べている人は少ない。だから我が家も明日から麦飯にする」と言った。初めて食べる麦ご飯、私にはどうしても飲み込めなかった。米粒だけが喉を通り麦だけが口に残った。

私は「白いご飯頂戴。麦は嫌だぁ」と叫んだ。父が「我儘は許さん。きちんと噛んで食べなさい」叱った。私は床の上に寝て手足をバタバタさせながら「白いご飯、白いご飯」と泣いた。孫には甘い祖母が「お鍋でご飯少し作ってやろう」と言い出した。父が「食いたくなければ食わなくていい。人間、四、五日食わなくても死にやせん」と怒って言った。「だってお前、可哀そうじゃないか」祖母が父に言った。父は「お母さん、ほっといて下さい。甘やかすのはこの子の為にもなりません」としっかりと言った。私は一層大声で泣きながら手足を激しく動かしたが誰も助けてくれなかった。そのうち泣き疲れて眠ってしまった。この事は今でもハッキリ思い出す。その後大人になってから父から叱られたことは一度もない。

学校を卒業してすぐ喫茶店をやりたいと私が言いだした時、誰もが反対したが父だけは黙ってお金を出してくれた。それから半年近く私は割烹店からクラブまで七店経営していたが、全部一度に辞めて儀ちゃんと結婚した。後輩の儀ちゃんとの結婚を一番喜んだのは多分父だったろう。だが父はその一年前に他界してしまった。でも私は、父が天国から「ヨーコ幸せになれよ」と祝福していたに違いない。
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