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[随筆]吉成庸子物語 「思い出話 後編」 【2025年7月号3面】

2025-07-03
カテゴリ:コラム
好評
 市原の小学校でガキ大将だった私は東京の小学校ではあまり口をきかない生徒になった。ただ作文の時間だけは楽だった。いつも褒められ作文を貼りだされていた。そして中学受験。両親がどうしても私を入れたかった 「東洋英和中学部」をを受験したが落ちた。合格すると思っていた父は、お祝いに鯛を買って帰宅したが、落ちたと聞いてショックで玄関で鯛を落とした。 

 結局、他のミッションスクールに入った。テレビや映画に少し出演するようになったため学校はあまり熱心に行かなくなった。芸能界入りに大反対だった両親にこれ以上心配をかけたくないと決心し、母が行きたくても行けなかったと語っていた「文化学院」の文学部に入った。
 
 卒業する少し前に、当時大学1年生だった妹が突然、東大教授のアメリカ人男性と結婚した。一方、私の親は早く私を結婚させたかっていたが私は全然結婚したいと思わなかった。とは言え何がしたいとも思わず遊び歩いてた。
 
 私は喫茶店をやってみたくなり虎ノ門に店を出した。開店資金は父にねだった。両親は反対しながらも「どうせ続きはしない」と思いやらせてくれたのだろう。朝のモーニングから夜まで私は本当によく働いた。商売が好きだったのだろうか。慣れない仕事なのに楽しかった。
 
 八丁堀や銀座に和食店を出し、軽井沢、新宿、白金にも店を出した。その後、銀座にクラブを開店したころ、気がついたら私は四十歳になっていた。いつも頼りにしていた父親も病死してしまった。食事する時間も寝る時間も惜しんで働いていたが「これでいいのだろうか」という疑問が少し湧いていた。

 そんな折、京葉銀行初代頭取の吉成儀ちゃんから母に「娘さんを私の嫁にいただけませんか」と申し出があった。吉成さんは父と知り合いだったのだから私もよく知っていた。お店にも来ていただいたが個人的なお付き合いはなかった。儀ちゃんは奥様を十年近く前に失い二人のお嬢さんがいた。私は母に「やだやだ、私誰とも結婚なんかしない。今のままで仕事を続けて行くから」と言うと、母は「一生のお願いだから結婚しておくれ。吉成さんはいい人だ。あなたが片付けば私も何も心配がなくなるんだよ お父さんだってあの世できっとそう願ってると思うよ」と私に懇願した。

 母の懇願が三日続いた日、私は結婚することに決めた。四十年間、自分勝手に生きてきた私だが、「天国でお父さんが私の結婚を願っている」という言葉がいつまでも頭から離れなかった。 
 
 私は儀ちゃんに電話し「承知しました」と答えた。すると儀ちゃんは「お互い気が変わらないうちに結婚式をあげてしまいましょう。三日後、午後三時に一人で普段着で香取神宮へ来てください。挙式費用は私が払っておきます。二人だけで式をあげましょう」と言った。
 
 一か月後、全部の店を辞めた。私は四街道の吉成の家へ引っ越してきて主婦となった。儀ちゃんと結婚するのが嫌なわけではなかった。だが私は店を閉めるのが辛くて最後の店、銀座のクラブ「昴」を閉める時は悲しくて悲しくて泣いた。
 
 儀ちゃんがこの世を去りもう八年。母も妹もこの世にいない。でも私はよき知り合いに囲まれ、幸せだと思いながら生きている。


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