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読者アンケート「こどもの日の思い出」【2024年5月号6面】

2024-05-03
カテゴリ:読者の意見
◎鯉のぼり
「こどもの日」には1メートル位の高さの綿入りの鯉のぼりや怖い顔の鐘馗(しょうき)様を飾ってもらい、ちまきを食べて楽しみました(あやめ台・杉崎勝)。実家の離れに居候していた時長男が生まれ、すでに故人となった兄が実家の庭にわざわざ丸太を買って来てこどもの日のお祝いに鯉幟を立ててくれたことです。3匹の鯉幟が泳ぐ姿が今でも目に浮かびます。ありがとう義兄!!長男も2人の父親になりました(六方・泉谷正誼)。子供の頃、父親が屋根にポールを立てて鯉のぼりを上げてくれました。毎朝鯉のぼりを上げ、毎夕降ろしていました。その父親は今年十七回忌です(園生・関直康)。自宅の庭に?朝上げ、夕方下げて、ちまきや柏餅を食べて、
菖蒲湯に入り夕食時に、お祝い膳を食べました(小仲台・木村敏三)。鯉のぼりをあげてました。庭に5メートルくらいの柱を建てて、雄鯉と雌鯉と吹流しをあげていました。下の弟が小学生くらいまでやっていたと思います。それから柏餅をつくってたべました。親は私たち兄弟に思い出を作ってくれたけど、自分は子供にこんな思い出を作ってやれなかったなと思っています(高洲・小坂孝一)。いつも庭先に大きな鯉のぼりを空高く揚げてもらっていた(千城台東・松沢伸二)(打瀬・松原保司)。

◎外出・食事
動物園に行ってゾウを見た時大きさに驚いていた。色々楽しかったように思っている(四街道・粟村道生)。子供の日は親と動物園など観光地を巡ったことが思い出です(幸町・斎藤昇輝)。子どもの日には、兜を飾り、御赤飯やお団子を食べました。おもちゃを買ってもらえて嬉しかったです(高洲・原國臣)。親に美味しい食べ物を買って貰ったり遊園地に連れてって貰ったりしました(高洲・原隆子)。子供の日は何となく我儘が言える雰囲気で行きたい所に連れてって貰えたり、普段食べないような美味しい食べ物を味わったり、おもちゃを買って貰ったり、
いいこと尽くめだったなぁ(天台・ケンタロウ)。

◎手作りの思い出
山深い田舎生活でとても「兜」など買えなかったので5月5日に兄と一緒に新聞紙で三角形の「カブト」を作り頭に被って大喜び。庭中を飛び廻った思い出があります(稲毛東・小林忍)。幼い頃、自分で作ったヤッコ凧を空高く上げて喜んでいたが凧糸が切れて遠くへ流されて無くし悲しかった事が懐かしく思いだされます(幸町・佐々木三郎)。こどもの日には菖蒲を屋根に乗せ、その菖蒲を入れた菖蒲湯に入りました。その菖蒲で笛を作り、風呂の中で母親とブーブーと鳴らしたことを思い出しました(園生・関恵美子)。

◎その他
私が子供の頃は端午の節句で男の子の祭りのイメージが強く女の子として思い出は青空に泳ぐ鯉のぼりを見て楽しんだ程度です(小仲台・田渕良子)。4人姉妹だったので特別なことはなかったと思う(あやめ台・一森万亀美)。終戦後で何んもない「田舎の子」でしたが、山でキノコが採れ川には魚が住む自然がありました。しかし今、脱炭素とか再生エネルギーとか訳のわからない言葉で容赦なく自然が壊されています。山・川は子供のようなもの。それは慈しみ育みそして未来に継いでいきたいものです(あやめ台・藤原健次)。田舎の敗戦後の食糧難とリンクした思い出しかない。茨城の田舎だが日立製作所の兵器工場があったために米軍の標的となり空襲と艦砲射撃にさらされ防空壕に逃げ込んだ「湿り気とありと虫」が思い出である。進駐軍が来て初めてのチュウインガムとチョコを味わった。今思えば恥ずかしいがジープの後を追っかけた。
母は芋を畑作して子供に食わせた。「食糧難」日本人にはもう馴染まない言葉。それが小生の五月晴れの子供の日の思い出だ(高洲・大内健司)。自分は男兄弟がいなかったが従兄弟達は男の子が多くて鯉のぼりを上げて貰ったり美味しい柏餅やちまきを作って貰ったり羨ましかった思い出がある。お裾分けは嬉しかった(千草台・タマ)。特別な行事もなく、普通の日のように過ごしていました(浜野町・柳澤範光)。親が休日も仕事で思い出なし(高洲・K)。

※一部抜粋して掲載

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