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トピックス

〔随筆〕吉成庸子物語【2024年2月号2面】

2024-02-01
カテゴリ:コラム,連載
「イルカのショー」
今年のお正月は例年通りホテルグリーンタワー幕張で過ごした。
儀ちゃんが亡くなってから、一人わびしくお正月を過ごす私を心配して、親しい方々や弟たちが勧めてくれたのがきっかけだった。
いつもは皆が集まってくれて、賑やかなお正月をホテルで過ごすのだけれど、今年はなぜか来て下さる人も少なく静かだった。元旦の地震でお亡くなりになった方々や行方不明の方の報道に触れるたび、ホテルでさわぐ気持ちが遠のいたのも自然なことだと思う。

私は「ようし、日ごろさぼってばかりいる原稿書きに精をだそう」と、書き出したのだが、持ってきた本のほうをつい読んでしまった。
私は子供のころから本が好きで、暗くなってからも電気を付けるのも忘れるくらい夢中で読んでいたらしい。祖母が「目を悪くするじゃないか」と言いながら電気を付けてくれたことが何度あったか…懐かしく思い出される。

結婚してから初めてのお正月のことを思い返して、私は一人で笑ってしまった。
結婚しても新婚旅行もなく、どこにも行かず、じいっと家の中にいる私に同情して、銀行の秘書室の皆さんが「お正月くらい温泉にでも入って」と優しい心づかいで、鴨川の旅館を手配してくださった。
旅行の当日、私は苦手な家事をしないで済むし、久しぶりの外出に生き返ったように心が弾んでいた。
宿に着き、ゆっくり夕食、二人でビール1本と日本酒を飲んで、少しいい気分になり、テレビを観ていたら、儀ちゃんがボストンバッグから何やら書類を取り出して仕事に取り掛かる様子。
「お父さん、仕事を持ってきたの?」と私が聞くと「あんたは先に寝ていいよ。俺はひと仕事するから」と言う。「お正月くらい、ゆっくりしたら?」と思わず言ってしまった。
そのとたんに「あんたと一緒になった時、俺は365日、銀行に捧げているのだから、休日は一日もないと思ってくれと言ったはずだ」と恐い顔でにらんだ。
「そりゃあ、そう言われたけどさ、でもお正月くらい…しかも旅行だしさ」。私の返答に「うるさい。ぐずぐず言わず早く寝なさい」と言ったあげく「テレビも消しなさい」だって。布団にもぐった私は、いつの間にか眠ってしまったらしい。

翌朝は、雪が落ちてきそうな寒い日だった。朝食後、儀ちゃんがニコニコ顔で「さっき、宿の人から聞いたんだが、すぐ近くにシーワールドがあって、イルカのショーがおもしろいそうだ。行ってみないか?」と言う。「本当?行きたい」「よし、じゃすぐ支度しろ」。
儀ちゃんの言葉に私はすぐに、しっかりと襟巻をつけてコートを着た。儀ちゃんを見るとブレザーにアスコットタイの姿。「お父さん、コート着たら?」そう注意してあげたんだけど「俺はこれで充分だ」と言う。イルカショーはおもしろかったけど、なにしろ寒かった。それでも最後まで観て宿に戻った。
その夜、儀ちゃんは熱を出した。風邪を引いたのだろう。私は一晩中、氷で冷やしたタオルを儀ちゃんの額に当てる作業に忙しく、さんざんだったっけな。

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